1995年4月28日と29日、北朝鮮・平壌のメーデースタジアムに約38万人の観客が集まった。この数字は、プロレス史上いまだ破られていない観客動員記録だ。
「Collision in Korea(コリジョン・イン・コリア)」と名付けられたそのイベントの仕掛け人は、一人のプロレスラーにして国会議員――アントニオ猪木だった。
なぜ、彼は敵対的な関係にあった北朝鮮でプロレスを開催できたのか。そして、その舞台裏では何が起きていたのか。
猪木と北朝鮮の「意外な縁」
アントニオ猪木と北朝鮮の関係を語るには、まず彼の師匠である力道山の存在から始めなければならない。
日本のプロレス界を開拓した「プロレスの神様」力道山は、現在の北朝鮮・洪原郡出身の朝鮮半島出身者だった。戦後日本で絶大な人気を誇り、その技と精神をアントニオ猪木に伝えた人物である。
猪木は長年、「師匠の故郷でプロレスを見せたい」という思いを抱き続けていたと言われる。単なるビジネスや政治的野心ではなく、そこには弟子としての深い敬意があったのだ。
さらに猪木には、もう一つのバックグラウンドがあった。1989年に参議院議員に当選し、政治家としての顔を持つようになった彼は、日本と北朝鮮の間に国交がない時代に、独自の「スポーツ外交」を模索し始めていた。
「Collision in Korea」とは何だったのか
1995年に開催されたこのイベントは、格闘技・プロレスの歴史において前代未聞のスケールだった。
参加レスラーは豪華そのものだった。アントニオ猪木をはじめ、WWFでも活躍したリック・フレアー、武藤敬司(グレート・ムタとして出場)、ベイダーなど、当時の世界トップクラスのレスラーが名を連ねた。会場となったメーデースタジアムの収容人数は15万人超。それが2日間で約38万人を動員したとされる。
この数字は今日に至るまでプロレス・格闘技イベントの世界最多動員記録として語り継がれている。
しかし、この記録の「裏側」に目を向けると、単純に祝えない事実が浮かび上がってくる。
イベントを支えた3つの背景
猪木がこのイベントを実現できた理由には、互いに絡み合う三つの要素があった。
① スポーツを通じた平和外交という理念
猪木は一貫して「スポーツに国境はない」という考え方を持ち続けていた。1990年のイラク・フセイン政権下で人質解放交渉に奔走したエピソードは有名だが、北朝鮮に対しても同じ姿勢で臨んでいた。当時、日本と北朝鮮は国交を持たず、対話のチャンネルさえほとんど存在しなかった。
② 師匠・力道山の故郷という特別な意味
前述のとおり、師匠の出身地でプロレスを披露したいという感情的な動機が猪木を突き動かしていた。これは単なる打算では説明できない部分だ。
③ 国会議員としての政治的パイプ
猪木は議員活動の中で北朝鮮側とのパイプを独自に構築し、それがイベント実現の実務的な基盤となった。日朝国交正常化を視野に入れた彼の外交活動は、賛否を呼びながらも着実に積み重ねられていた。
レスラーたちが語った「異様な空気」
実際にColision in Koreaに参加したレスラーたちの証言は、一様に「異様だった」という言葉で締めくくられる。
会場に足を踏み入れた彼らが感じたのは、プロレスならではの熱狂ではなく、整然とした沈黙に近いものだった。観客は笑わず、騒がず、応援のタイミングさえ統一されているように見えた。試合後にレスラーたちが笑顔を向けても、感情的な反応は返ってこなかった。
自由行動はほぼ認められず、常に案内役(実質的な監視役)が同行した。外を自由に歩くことも、現地の人々と自由に話すことも許可されなかった。ある外国人レスラーは「テーマパークのセットの中で試合しているような感覚だった」と振り返っている。
そして最も議論を呼んだのは、観客動員の実態だ。「自発的に集まった熱狂的なファン」ではなく、国家的な動員によって連れてこられた可能性が高いと、後に複数の関係者が指摘した。38万人という数字の裏にある「自由意志」の問題は、このイベントを純粋に称賛することを難しくしている。
猪木は北朝鮮に「利用された」のか
このイベントに対する批判は、主に三つの観点から行われた。
まず、北朝鮮の政治プロパガンダに加担したのではないかという指摘だ。世界最高峰のプロレスラーが集まり、北朝鮮で国際的なビッグイベントが開催されたという事実は、北朝鮮当局にとって体制の正当性を演出する格好の素材となりえる。
次に、日本人政治家としての立場の問題だ。日本と北朝鮮の間には、解決されていない拉致問題が存在した。そのような状況下で訪朝し、イベントを開催することへの批判は、被害者家族を中心に根強かった。
そして三点目として、莫大な経費の問題がある。イベントにかかった費用は猪木側の負担が大きく、財政的にも成功とは言えなかったと伝えられている。
こうした批判に対し、猪木は「スポーツで世界はつながる」という言葉を繰り返し、批判の声には正面から反論せずにいた。彼の態度は頑固とも、信念の人とも取れる。
その後の猪木と北朝鮮
Collision in Korea以降も、猪木は北朝鮮との関係を切らなかった。
2000年代以降も複数回にわたって訪朝し、スポーツ交流や対話のパイプとしての役割を担い続けた。政府の公式チャンネルでは届かない場所に、猪木独自の「民間外交」が存在した。
2022年10月、アントニオ猪木は79歳でこの世を去った。彼の北朝鮮外交については、今も評価が二分している。「危険な独善外交」と批判する声と、「誰もできなかった対話の扉を開いた」と評価する声が、現在も平行線をたどっている。
猪木が追い求めたもの
振り返ってみると、猪木の行動には常に一つの軸があった。
政府が動けない場所に、スポーツという言語で踏み込んでいくこと。それが北朝鮮であり、イラクであり、ブラジルだった。正しいかどうかより、「誰かがやらなければならない」という使命感が彼を動かしていたように見える。
プロレスラーとして「燃える闘魂」と呼ばれた男は、リングを降りてもなお闘い続けた。その相手が独裁国家であっても、世間の批判であっても。
1995年の平壌プロレスは、プロレス史上最大の観客動員記録を持つイベントであると同時に、スポーツと政治が交差する場所に生じた複雑な問いを、今も私たちに投げかけ続けている。


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