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塙宣之の若い頃が意外!売れない時代の苦労とは【ナイツ・漫才協会会長の下積み人生】

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M-1グランプリの審査員席に堂々と座り、辛口かつ的確なコメントを放つ塙宣之。漫才協会の会長として業界を牽引し、ナイツのボケとして安定した人気を誇る彼だが、実は現在の姿からは想像もできないほど長く苦しい下積み時代を経験していた。

「売れない時代がある」と語られる芸人は多いが、塙宣之の場合、その苦労の深さと、そこから這い上がった過程がとりわけ興味深い。

本記事では、塙宣之の若い頃のエピソードや売れない時代の実態について詳しく掘り下げていく。

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塙宣之のプロフィール

まず基本的なプロフィールを整理しておこう。

項目内容
本名塙 宣之(はなわ のぶゆき)
生年月日1978年3月27日
出身地千葉県我孫子市
学歴創価大学
コンビナイツ(相方:土屋伸之)
所属事務所マセキ芸能社
役職一般社団法人漫才協会会長

実兄はお笑いタレントの「はなわ(塙尚輝)」。兄弟揃って芸能界で活躍するという珍しい一家でもある。

学生時代からお笑いを志した理由

ダウンタウンとの”運命の出会い”

塙宣之がお笑いに目覚めたきっかけは、幼少期にテレビで見たダウンタウンの漫才だった。志村けんや松本人志に強い憧れを抱き、小学生の頃にはすでに「お笑い芸人になる」という夢を持っていたという。中学時代はクラスのお笑い担当として人気者だったとも伝えられており、その才能は早くから開花していた。

高校時代に吉本のオーディションで優勝するも…

高校2年生のとき、塙は友人と組んで吉本興業主宰のオーディション番組に出場し、なんと優勝を果たす。福岡吉本への所属が決まりかけたが、「2人連続で息子が芸人になるのはつらい」という母親の強い反対により、その話は白紙に。自身も「ツッコミで売れたくない」という強いこだわりがあったこともあり、コンビを解散して大学進学の道を選んだ。

創価大学で出会った”運命の相方”

上京した塙が進んだのは創価大学。大学の落語研究会に入り、そこで後に相方となる土屋伸之と出会う。二人ともに「のぶゆき」という名前を持つという縁もあり、意気投合。2000年に「ナイツ」を結成することになる。

ナイツ結成と若手時代の現実

コンビ結成直後に訪れた最初の試練

2000年、塙が大学卒業と同時にナイツは本格的に動き出した。しかし、そのスタート直後から試練が待ち受けていた。結成からわずか数ヶ月後、塙がバイク事故で大腿骨を骨折し、なんと約1年間歩けない状態に。コンビとしての活動がほぼゼロになるという、致命的なハンディキャップを最初期に経験している。

それでも土屋は3ヶ月間、毎日塙の見舞いに訪れたという。この出来事がコンビの絆を深め、後のナイツの礎になったとも言えるだろう。

テレビには出られない、収入も不安定

若手時代のナイツは、基本的に小さなお笑いライブを中心に活動していた。テレビ出演はほぼゼロ。知名度もなく、当然収入も安定しない。2000年代前半は、芸人の数が爆発的に増えた「お笑いブーム」の時代。その波に乗れない若手は、ひたすら地道にライブをこなすしかなかった。

浅草の寄席に「強制配属」された

ナイツが所属するマセキ芸能社では、新人芸人に活動場所を「テレビか漫才協会か」の2択で選ばせていたという。他の芸人たちは全員テレビを希望したが、ナイツだけは事務所の判断でテレビへの希望が却下され、浅草の寄席で活動することになった。

これは当初、芸人としてはマイナスに見えたかもしれない。しかし結果的に、この「浅草仕込み」こそがナイツの強みとなる。

売れない時代の3つの苦労

① 漫才スタイルが完成するまでの試行錯誤

現在のナイツのトレードマークといえば「ヤホー漫才」と呼ばれる”言い間違い漫才”だ。しかしこのスタイルは、結成当初から確立されていたわけではない。

初期のナイツは一般的な漫才や野球ネタなどを披露していた。転機となったのは2007年、落語芸術協会に入り寄席向けの漫才に触れたことだ。「3分間で100個ボケられるか」という実験的な試みを経て、塙が一方的にボケ続け、土屋がツッコミながら訂正するというスタイルが誕生。これが後の「ヤホー漫才」へとつながっていく。

実はこのスタイルは、塙が愛するYMOの音楽から発想を得たという独自性がある。機械的で規則的なリズムの中に不協和音を挟む構造が、塙の”ボケを連発し途中で外す”漫才リズムに反映されているのだ。

② テレビへの道が遠かった下積み期間

知名度ゼロの状態でテレビに出るためには、まずお笑いの賞レースで結果を残すしかない。しかし2000年代前半のナイツは、賞レースでも目立った実績を残せずにいた。

人気芸人への近道が見えない中、ひたすら浅草の寄席でネタを磨く日々。この「成果の見えにくい修行期間」こそが、後の爆発的な才能開花の土台となった。

③ お笑いブームの陰に隠れた”無名の時代”

2000年代はダウンタウン、ナインティナイン、くりぃむしちゅーといったビッグネームが君臨し、さらに若手芸人が数多くデビューした激戦区の時代だ。この時代に”漫才”という正統派スタイルで勝負しようとしたナイツは、当初は時代の流れとも逆行していた面があった。

転機となったM-1グランプリ

2008年、運命の決勝進出

ナイツにとって最大の転機となったのが、2008年のM-1グランプリだ。「ヤホー漫才」を引っ提げて決勝に進出し、最終3位という結果を残したナイツは、一夜にして全国区の知名度を手に入れた。

塙にとって「松本人志の目の前で漫才をやる」ことは長年の夢だったというが、この舞台でその夢を叶えることになる。テレビ露出も一気に増え、それまでの地道な積み重ねが一気に花開いた瞬間だった。

2009年・2010年と3年連続ファイナリスト

2008年の活躍に留まらず、ナイツは2009年・2010年にも3年連続でM-1決勝の舞台に立ち続けた。さらに2011年には「THE MANZAI」で準優勝。漫才師としての地位を着実に固めていく。

売れた後も評価され続ける理由

正統派漫才への揺るぎないこだわり

塙宣之が「ただのブームで消えた芸人」にならなかった理由は明確だ。それは浅草の寄席で培った「正統派漫才」への徹底したこだわりと、長年の修行で磨いた技術の高さにある。

漫才は音楽だという持論を持つ塙は、リズム・間・テンポを計算し尽くしたネタを作り続けている。テレビ向けのウケ狙いではなく、漫才の本質を追求する姿勢が、業界内での評価にもつながっている。

時事ネタのセンスと安定したトーク力

ヤホー漫才の魅力の一つは、その時々の時事ネタをうまく織り込む塙のセンスだ。政治・スポーツ・社会問題など、あらゆる時事ネタを「言い間違い」というフォーマットに落とし込む技術は、長年の経験なしには生まれない。

漫才協会会長・M-1審査員という”重責”

2007年には史上最年少で漫才協会の理事に就任。2015年には副会長、そして2023年には会長に就任し、お笑い界の重鎮としての地位を確立した。M-1グランプリでは2018年から審査員を務め、若手漫才師を評価・育成する立場にも立っている。

まとめ:苦労した時代があったから今がある

塙宣之の若い頃を振り返ると、華やかな現在とはかけ離れた苦労の連続だったことがわかる。

  • 高校時代の吉本オーディション優勝も、家族の反対で幻に
  • コンビ結成直後のバイク事故で約1年間活動停止
  • テレビ出演ゼロ・知名度ゼロの下積み生活
  • 「言い間違い漫才」スタイル確立まで7年以上の試行錯誤
  • 浅草の寄席で地道にネタを磨く日々

それでも腐らず、漫才の本質を追求し続けた結果が、現在の塙宣之を作り上げた。M-1の審査員として若手芸人に厳しくも愛のあるコメントを送る彼の言葉には、誰よりも長く深い下積み経験が宿っている。

「売れない時代をどう生きるか」——塙宣之の歩みは、夢を持つすべての人間に対する、静かで力強いメッセージでもある。

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