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陸上日本記録保持者が代走専門プロ野球選手へ|飯島秀雄の異色キャリア

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メキシコ五輪後の衝撃的な決断

1968年12月2日、プロ野球界に衝撃のニュースが駆け巡りました。メキシコシティーオリンピック陸上100メートルに出場したばかりの飯島秀雄が、ロッテオリオンズ(当時は東京オリオンズ)からドラフト9位指名を受けてプロ野球選手になると発表されたのです。しかも野球は素人で、契約内容は「代走専門」という前代未聞の異色入団でした。

「ロケットスタート」が生んだ日本記録

飯島秀雄は1943年生まれ、茨城県水戸市出身の陸上短距離選手でした。かつて「暁の超特急」と呼ばれた伝説の短距離ランナー吉岡隆徳の指導を受け、抜群のスタートダッシュから「ロケットスタート」の異名を持っていました。

1964年6月26日、西ベルリンの国際陸上競技会で100メートル10秒1を記録し、師匠である吉岡の持つ日本記録10秒3を実に29年ぶりに更新。東京オリンピックでも活躍が期待されましたが、準決勝で敗退という結果に終わりました。

4年後の1968年メキシコシティーオリンピックでも、飯島は再び準決勝で敗退します。電気計時で10秒34という記録を残しましたが、世界レベルでは9秒台に突入する選手も現れ始めており、飯島自身も限界を感じていました。

プロ野球への思いがけない道

メキシコ五輪の後、飯島は「足を生かした仕事をしたい」と考えていました。知人を通じて國學院大學野球部監督の大沢伸夫に話が伝わり、その弟でオリオンズのコーチだった大沢啓二を介して永田雅一オーナーへと話が繋がったのです。

当初は走塁コーチとしての契約という話でしたが、飯島が知らないうちに選手契約に変わっていたといいます。契約金1000万円という破格の条件で、1968年のドラフト9位でオリオンズに指名されました。

背番号88という数字には特別な意味がありました。これは当時の年間盗塁数日本記録だった85を上回ってほしいという期待が込められていたのです。球団は飯島の足に5000万円もの傷害保険をかけ、特製スパイクを支給するなど万全の体制を整えました。

華々しいデビューと厳しい現実

1969年4月13日、対南海ホークス戦で飯島は公式戦デビューを果たします。3対3で迎えた9回裏無死1塁という絶好の場面で代走として起用され、名捕手として知られる野村克也の守るマウンドで初球から見事に盗塁を成功させます。さらに守備の乱れに乗じて3塁まで進み、チームメイトの犠牲フライでサヨナラ勝ちの立役者となったのです。

オリンピック選手の華麗な転身として大きな話題を集め、ロッテの観客動員にも大きく貢献しました。投手が飯島を警戒することで打者への集中力が削がれ、飯島が塁上にいる時のチーム打率は驚異の4割2分4厘という高い数字を残しています。

「代走専門」の厳しさ

しかし、期待されたほどの盗塁数を重ねることはできませんでした。相手チームからは徹底的にマークされ、3年間の通算成績は117試合出場で盗塁23個、盗塁死17、牽制死5という結果に終わります。

この記録には陸上競技と野球の「走り」の違いが如実に表れています。陸上100メートルは直線を最高速度で駆け抜ける競技ですが、野球の盗塁は投手の動作を読み、わずか27.43メートルの距離を状況判断しながら走る技術です。スタートダッシュは得意でも、ベースボールの複雑な技術を習得するには時間が足りませんでした。

それでも飯島の存在価値は盗塁成功数だけでは測れません。代走として出場するだけで相手投手にプレッシャーを与え、味方の打撃を後押しする効果がありました。一度も打席に立たず、守備にもつかず、すべて塁上からの出場という特異な選手として、プロ野球史に名を刻んだのです。

トラック素材の変化が引き金に

飯島がメキシコ五輪後に陸上界から離れた理由の一つに、競技環境の変化がありました。メキシコシティー五輪で初めて採用されたタータントラック(全天候型ゴム製トラック)の反発力に、飯島の走法が対応できなかったというのです。

それまでの土のトラックとは異なる感覚に戸惑い、50メートルから70メートル付近で肩の筋肉が硬直して失速するケースが増えていました。陸上界の急速な技術革新と世界レベルの向上に、もはや自分の走りでは対応できないと判断したことも、プロ野球への転身を後押ししたのかもしれません。

スポーツ史に残る挑戦

飯島秀雄のロッテでの3年間は、数字だけ見れば成功とは言えないかもしれません。しかし、オリンピック選手がプロ野球に挑戦するという前例のない試みは、多くのファンに夢と興奮を与えました。

「代走屋」として117試合すべてを塁上から出場した選手は、おそらく今後も現れないでしょう。異なる競技の「走る」という行為の奥深さを証明し、スポーツの専門性と技術の違いを私たちに教えてくれた貴重な存在です。

引退後は陸上界に復帰し、審判員やスターターとして活躍。1991年の東京世界陸上選手権では、カール・ルイスが世界記録を出した時のスターターも務めています。

飯島秀雄の挑戦は、スポーツの垣根を越えた勇気ある決断として、日本スポーツ史に特別な1ページを刻んでいます。

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