太平洋戦争中の日本では、20歳になった男子には徴兵検査の義務がありました。しかし、すべての若者が進んで戦場へ向かったわけではありません。家族を守りたい、夢を諦めたくない、そして何より生きたいという切実な思いから、様々な方法で徴兵を逃れようとした人々がいました。
歴史の影に隠れた徴兵逃れの実態と、当時の若者たちが直面した過酷な選択について、具体的なエピソードをシラベテミタ!
徴兵検査の仕組みと判定基準
徴兵検査では、身体検査と精神状態の審査が行われ、甲種・乙種・丙種・丁種・戊種の5段階に分類されました。甲種と乙種は即座に入営、丙種は補充兵、丁種と戊種は兵役免除という判定でした。
多くの若者が目指したのは「丙種以下」の判定。そのために、様々な工夫が試みられました。
実際に行われた徴兵逃れの方法
1. 体重操作による回避
最も一般的だった方法が、極端な減量です。当時の基準では、体重が一定以下だと丙種判定となり、即時入営を免れることができました。
実話エピソード: 東京下町の商家の次男・鈴木さん(仮名)は、徴兵検査の3ヶ月前から極端な食事制限を始めました。1日に梅干し2個と水だけという生活を続け、体重を15キロ落として検査に臨んだといいます。結果は丙種判定。しかし、栄養失調で髪が抜け、歯茎から出血が止まらなくなり、戦後も健康を取り戻すのに数年かかったそうです。
2. 聴力・視力の偽装
わざと難聴や視力障害を装う方法も広く知られていました。検査前に大音量を聞き続けて聴力を低下させたり、視力検査のために意図的に誤答する若者もいました。
3. 故意の負傷
検査直前に自分で怪我をするという、より危険な方法を選んだ人もいました。指を切断する、足首を骨折させるなど、一生残る障害を負ってでも戦場を避けようとした例が記録に残っています。
4. 精神疾患の偽装
最も演技力が必要とされたのが、精神疾患を装う方法です。検査場で奇声を上げたり、支離滅裂な言動をするなど、演技で乗り切ろうとした若者もいました。
実話エピソード: 京都の染物屋の長男・山本さん(仮名)は、検査の3日前から一睡もせず、目を血走らせて検査場に現れました。医師の質問にまったく答えず、ただ虚空を見つめ続けたといいます。しかし担当医師は経験豊富で、「演技だろう」と一蹴。結果は甲種合格となり、数ヶ月後にはフィリピン戦線へ送られたそうです。
合法的な徴兵回避の道
学生としての徴兵猶予
大学や専門学校に在籍していれば、一定期間の徴兵猶予が認められました。そのため、裕福な家庭の子弟の中には、徴兵を避けるために進学する者もいました。ただし、1943年以降は「学徒出陣」により、文系学生の猶予は撤廃されました。
軍需産業への就職
軍需工場などの指定事業所で働けば、徴兵が延期される制度がありました。多くの若者が、この制度を利用して戦場行きを回避しようとしました。
朝鮮や満州への移住
中には、家族ごと朝鮮半島や満州へ移住することで、徴兵の目を逃れようとした人々もいました。ただし、戦況の悪化とともに、そこでも徴兵が実施されるようになりました。
徴兵逃れが発覚した場合の罰則
徴兵忌避は重罪とされ、発覚すれば軍法会議にかけられました。刑罰は3年以下の懲役で、出所後は改めて入営させられることが一般的でした。また、家族も「非国民」として地域社会から激しい差別を受けることになりました。
実話エピソード: 大阪の織物商の次男は、徴兵検査の通知を無視して山奥の親戚宅に身を隠しました。しかし憲兵隊の執拗な捜索により3ヶ月後に発見され、見せしめとして村の広場で公開説諭を受けたといいます。彼の家族は「売国奴の一家」として近所から石を投げられ、商売も立ち行かなくなりました。
徴兵逃れを選ばなかった人々
一方で、徴兵逃れができる立場にありながら、あえて志願した若者も多くいました。「国のため」という建前だけでなく、「自分だけが逃げるわけにはいかない」という仲間意識や、家族が社会から疎外されることへの恐れもありました。
戦後の証言から見える真実
戦後、多くの証言から明らかになったのは、徴兵逃れを試みた若者たちの多くが、深い罪悪感と後ろめたさを生涯抱えていたという事実です。「仲間が戦地で死んでいく中、自分だけが生き延びた」という思いは、心の傷として残り続けました。
しかし同時に、「生きたい」と願うことは人間として当然の感情です。国家が若者に死を強いる時代において、彼らの選択を一概に非難することはできません。
まとめ
戦時中の徴兵逃れは、極限状態に置かれた若者たちの生存本能の表れでした。自傷行為や健康破壊という代償を払ってでも生き延びようとした彼らの選択は、戦争という狂気がいかに個人の人生を翻弄したかを物語っています。
現代を生きる私たちは、このような時代が二度と訪れないよう、歴史から学び続ける責任があります。徴兵制度の実態を知ることは、平和の尊さを再認識することにつながるのです。


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