2025年10月31日、未解決のまま26年間眠り続けていた殺人事件に、ついに光が差し込んだ。1999年に名古屋市西区で起きた主婦殺害事件。幼い息子の目の前で母親が命を奪われた悲劇は、DNA鑑定技術の進歩と遺族の執念によって、ようやく解決の糸口を掴むことになる。
この事件が26年という長い年月を経て解決に至った背景には、被害者の夫・高羽悟さんの並外れた覚悟があった。彼は事件現場のアパートを借り続け、約2200万円もの家賃を支払い、犯人逮捕のその日まで血痕や足跡を保存し続けたのだ。
1999年11月13日、突然奪われた幸せな日常
事件が起きたのは1999年11月13日午後2時半頃。名古屋市西区稲生町のアパートで、主婦の高羽奈美子さん（当時32歳）が何者かに首を刺され殺害された。発見したのは柿を配りに訪れた大家さんで、無施錠のドアを開けると、奈美子さんが血を流して倒れていたという。
最も心を痛めるのは、奈美子さんのすぐそばに当時2歳1か月の長男・航平ちゃんが無傷で座っていたことだ。母親が命を奪われる瞬間を、幼い子どもが目撃していた可能性がある。夫の悟さんは当時仕事で外出中だった。
奈美子さんは結婚4年目で、近所では明るく礼儀正しい女性として知られていた。事件直前、悟さんに「本当に私、人生で今が一番幸せな時かもしれない」と語っていたという。その幸せな日々は、あまりにも突然、残酷に奪われた。
現場に残された決定的な証拠
犯人は奈美子さんともみ合いになった際、手に傷を負ったとみられ、玄関には犯人の血痕と足跡が残されていた。さらに、アパートから北東方向に約500メートルにわたって、一定のリズムで血痕が点々と残されていたことから、犯人が手から出血しながら逃走したことが分かった。
愛知県警の捜査により、現場から採取された血液のDNA鑑定から、犯人は以下の特徴を持つ女性であることが判明した。
- 身長：約160センチ
- 血液型：B型
- 靴のサイズ：24センチ
- 年齢：当時40〜50代（現在60〜70代）
目撃情報によると、アパートの階段で手をかばって血を流している女性の姿が目撃されていた。県警は延べ10万人以上の捜査員を動員し、奈美子さんの知人関係を中心に捜査を進めたが、事件は長期間にわたって未解決のままとなった。
夫が下した決断「2200万円で現場を保存する」
悟さんは事件から数年後、玄関に犯人の血痕が残っていることに気づいた。その瞬間、ある決意が生まれた。
「科学捜査の進展で解決のきっかけになるかもしれない」
悟さんは事件現場となったアパートの部屋を借り続けることを決めた。別の場所に住まいを移しながらも、事件現場の部屋は当時のまま保存し続けた。カレンダーは1999年11月のまま。奈美子さんが事件当日の朝、パジャマの上に羽織っていた上着もそのまま。玄関には茶色く変色した血痕と、犯人の足跡がくっきりと残されている。
この決断の背景には、「息子から母親を奪った犯人を実況見分に立ち会わせるまではこのままにしよう」という強い思いがあった。26年間で支払った家賃の総額は約2200万円。「本当は玄関の床に残る血痕を見るのもつらい」と語る悟さんだが、それでも「生々しい現場が報道されることで事件の風化を防ぎたい」という願いから、取材にも応じ続けてきた。
時効撤廃への尽力と「宙の会」での活動
悟さんの活動は現場保存だけにとどまらなかった。2009年、殺人事件の公訴時効撤廃を求める被害者遺族で作る「殺人事件被害者遺族の会（宙の会）」の設立に参加。代表幹事として、国への陳情活動を精力的に行った。
その結果、2010年4月、殺人罪などの公訴時効が撤廃された。悟さんにとっては大きな勝利だったが、時効が撤廃された後も「どうしようかな」と悩んだという。しかし、その頃からDNA捜査の進歩が話題になり始めていたため、「メディアに訴えるにも、もう少し持っていたほうがいい」と判断し、アパートの賃貸契約を継続した。
悟さんは事件の有力情報を求め、県警の捜査員らとともに自らも街頭に立ち、ティッシュやチラシを配布してきた。その姿勢は、「犯人に対するメッセージ。いつまでも諦めない」という強い意志の表れだった。
息子の成長と結婚、そして母の不在
事件当時2歳だった航平さんは、父親の手一つで大切に育てられた。そして27歳になった航平さんは結婚することを父に報告した。悟さんは「奈美子がいたらどれだけ喜んだかと思います。失ったことは多かったが、初めていいものをもらった感じです」と語った。
航平さんの結婚という人生の節目に、母・奈美子さんの姿はない。それでも悟さんは「生きていればいいことありますよね。頑張って前向きにいかないと」と前を向き続けた。
26年目の急展開｜自ら出頭した容疑者
2025年10月30日午後、ある女性が名古屋・西警察署に1人で出頭してきた。安福久美子容疑者、当時69歳。DNA型鑑定試料の任意提出を当初は拒否していたが、この日ついに応じ、数時間後に自ら出頭した。
翌31日、現場の血痕と安福容疑者のDNA型が一致したことが判明し、逮捕に至った。逮捕容疑は、1999年11月13日頃、アパートの室内で高羽奈美子さんの首などを鋭利な刃物で複数回刺し、失血死させた疑い。逮捕状を読み上げると「合っています」と答え、容疑を認めたという。
そして衝撃的な事実が明らかになった。安福容疑者は、被害者の夫・悟さんの高校時代の同級生だったのだ。同じ軟式テニス部に所属していたという。悟さんは「自分の関係者だとは絶対に思ってなかった」と驚きを隠せなかった。
容疑者が語った26年間の不安
警察の取り調べに対し、安福容疑者は次のように供述した。
「警察が8月に来て捕まると覚悟した。26年間毎日不安だった。家族に迷惑をかけられず、捕まるのが嫌だった」
さらに、「事件に関する新聞も見られなかった。発生日が近づくと悩んで気持ちが沈んだ」とも打ち明けたという。容疑者は事件への関与を家族にも明かさず、名古屋市内の大型スーパーで事務員として働きながら、夫や子どもとマンションで生活していた。近所ではPTA役員を務める「いい人」として知られていたという。
警察は2025年8月から容疑者への任意聴取を続けており、捜査の手が迫る中で追い込まれた末の出頭だったとみられている。
DNA鑑定技術の進歩が導いた正義
この事件が26年という長い年月を経て解決に至った最大の要因は、DNA鑑定技術の飛躍的な進歩だった。1999年当時、現場から犯人の血液が検出されていたものの、当時の技術では個人を特定することができなかった。
しかし近年、微量のDNAでも個人を高精度で特定できる技術が確立された。警察は証拠を大切に保管し、技術の進歩を待ちながら再検証を続けてきた。そして改めて行われた鑑定で、安福容疑者の遺伝子型と一致したのだ。
悟さんが26年間、約2200万円を払ってアパートを借り続け、現場を保存してきたことが、この科学捜査の進展を可能にした。警察も「悟さんが現場の部屋を借り続け、保存していたことも捜査に寄与した」と認めている。
実現した「現場での実況見分」
2025年11月1日午後2時頃、悟さんが26年間願い続けてきた瞬間がついに訪れた。段ボール箱に入ったブルーシートやパイプのような物などを持った捜査員らがアパートに入り、安福容疑者を立ち会わせての現場検証が行われたのだ。
周辺道路には規制線が張られ、複数の警察官が第三者の立ち入りを警戒する中、多くの報道陣や周辺住民らが状況を見守った。現場検証後、悟さんは涙ぐみながら心境を語った。
「できたら犯人を捕まえて警察署の取調室で調書を取るんじゃなくて、ここは現場そのままなので実況見分をしてもらいたかった」
悟さんの願いは叶った。2200万円を払い続けた現場が、ついに真実を明らかにする舞台となったのだ。
未解明の動機と今後の捜査
逮捕から数日が経った現在も、動機は明らかになっていない。容疑者が被害者の夫の同級生だったという衝撃的な事実は判明したものの、なぜ同級生の妻を襲ったのかという最大の疑問は残されたままだ。
悟さんは「動機がまったくわかんない」と語り、「警察からの事情聴取も続いているし、容疑者の動機が分かっていないので、奈美子の仏前にもまだ報告できていない段階」だという。
警察は、安福容疑者が悟さんの同級生であることから、犯行の計画性なども含め、慎重に調べを進める方針だ。
「2200万円払っていてよかった」
逮捕の一報を受けた悟さんは、「一生懸命いろんなことトライしてきた。26年かかったけど、捕まえてよかったなという思いしかない」と語った。そして、26年間で約2200万円を支払い続けたことについては、「金曜日に捕まりましたので、2200万円払っていてよかったなという思いで今はいます」と振り返った。
長い年月、決して諦めなかった遺族の思いが、ついに報われた瞬間だった。
この事件が示すもの｜時間が経っても真実は消えない
この事件は、いくつかの重要なメッセージを社会に投げかけている。
第一に、科学技術の進歩が正義の実現を可能にするということだ。当時の技術では特定できなかった犯人が、26年後の技術によって特定された。これは他の未解決事件にも希望を与える出来事だ。
第二に、遺族の諦めない姿勢が事件解決の力になるということだ。悟さんの26年間にわたる現場保存と情報提供の呼びかけは、まさに執念と呼ぶにふさわしい。
第三に、2010年の公訴時効撤廃が犯人に心理的圧力を与え続けたということだ。容疑者が「26年間毎日不安だった」と供述したことからも、時効撤廃の意義が示されている。
おわりに
1999年11月13日、2歳の子どもの目の前で母親が命を奪われた事件。その日から26年間、夫の高羽悟さんは約2200万円を払い続け、事件現場を保存し、犯人逮捕のために尽力してきた。
2025年10月31日、ついに容疑者が逮捕された。それは科学技術の進歩と、遺族の執念が導いた奇跡だった。しかし、悟さんの戦いはまだ終わっていない。動機の解明という最後の真実が明らかになるまで、彼は見守り続けるだろう。
「時間が経っても真実は消えない」
この事件が証明したその言葉は、今も解決を待つすべての未解決事件の遺族にとって、希望の光となるはずだ。
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