野球少年から「怪物」への道―中学時代の原点
広島県広島市出身の中田翔は、小学3年から広島鯉城リトルで野球を始めた。当初は捕手としてプレーしていたが、6年時に投手に転向。広島鯉城シニア時代には連盟記録となる通算51本塁打を記録し、3年時には日本代表に選出されるまでになった。
広島市立国泰寺中学校に通っていた中田は、すでにこの段階で「怪物」の片鱗を見せていた。しかし、真の才能開花は大阪桐蔭への入学で始まることになる。
西谷浩一監督の40~50回の広島通い
中田の才能に目をつけた大阪桐蔭野球部の西谷浩一監督は、なんと40~50回もスカウトのために広島に通ったという。これほどの熱意をもって勧誘した理由は、中田が持つ唯一無二の才能にあった。
しかし、この天才少年をプロの一流選手に育成することは、想像以上に困難だったのである。
「気に食わない先輩を乾燥機に叩き込んだ」ヤンチャエピソード
中田翔は非常に気が強いことで知られており、ヤンチャといわれるエピソードが多く、大阪桐蔭時代は「気に食わない先輩を乾燥機に叩き込んだ」と自分でも認めている。
高校1年生の段階で5番・一塁手としてレギュラーに抜擢された中田だったが、その傍若無人な振る舞いは部内でも有名だった。プロ野球で成功するための才能は十分にあったが、集団生活の中での「ルール」や「上下関係」という概念が、まだ彼の中には育成されていなかったのだ。
同級生を下に見る態度も顕著だった。中田は入学時から同級生のことを下に見ていたという証言も残っており、その自信と傲慢さは紙一重の関係にあった。
プロ入り後も続いた素行問題
大阪桐蔭を経て、2007年のプロ野球ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから1巡目指名を受け入団したが、問題行動はプロでもエスカレートしていく。
2008年春季キャンプでは、連日の取材攻勢にストレスがたまっていたのか、宿舎の窓から持参したエアガンで報道陣を狙撃した。球団スタッフでさえ「手に負えない」と嘆くほどの状況に陥っていたのである。
さらに問題だったのは、一軍定着前の二軍時代は遅刻・寝坊・仮病の常習犯であり、プロ1年目に左手首を骨折した時も球団は当初、「またいつものウソか」と信じなかったくらいだという。
試練が才能を開花させた瞬間
転機が訪れたのは、左手首の骨折からの復帰期だった。この時、中田は本気で自分の野球人生を見つめ直すことになる。
寮の部屋で松葉杖を置き、バットを握った。テレビ画面に自分の打撃フォームを映し、これまで見向きもしなかった他の打者の映像も凝視しながら、何度も何度もバットを振ったのである。
「このままじゃダメだ。首を切られてしまう」―その危機感が、怪物の本当の力を引き出す契機となった。高校時代のヤンチャぶりとプロ入り後の素行問題は、実は自分の才能が通用する時代への慢心だったのだ。
「怪物」から真のプロへ
大阪桐蔭時代、中田は1年夏には「5番・一塁手」でレギュラーとなり、2005年の夏の甲子園ベスト4に貢献した。その後、投手としても最速147km/hを計測するなど、本当に「怪物」的な活躍を見せたのである。
高校通算87本塁打という当時の最高記録を樹立し、「怪物」と呼ばれるようになった中田だが、その名声は同時に彼を傲慢にしていた。
しかし、プロの厳しさとぶつかり、試行錯誤を重ねた結果、中田翔は本当の意味での一流選手へと成長していった。ヤンチャだった少年が、何度もの修羅場を経て、プロ野球を代表する打点王となるまでの道のりは、単なる「才能の開花」ではなく、「人間の成長」の物語だったのである。


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