中田英寿を上回る才能が埋もれた理由
1993年のU-17世界選手権で日本代表の背番号10を背負い、大会のベストイレブンに輝いた財前宣之。
中田英寿は彼について「同世代の憧れで、上手すぎて近寄りがたかった。ひとことで言えば天才」と語ったほど、その才能は突出していました。
U-17日本代表では財前がいたから中田英寿がFWだったという事実からも、財前の評価の高さが際立ちます。U-17日本代表の中心選手だった財前が日本代表に選ばれることがなかったのでしょうか。
ヴェルディ入団が本当に間違いだったのか
1976年生まれの財前は、中学時代から読売ユース(現ヴェルディユース)に所属し、約400倍の難関をくぐり抜けた天才児だった。U-17日本代表の育成指導者からは「ザイをモデルに他の選手に教えていた」と高く評価されるほど。
U-17世界選手権でのパフォーマンスをみれば、ヴェルディのトップチーム昇格は自然な流れでした。
しかし、ここからが運命の分かれ道となります。1995年のトップチーム昇格から間もなく、財前はイタリアの名門ラツィオへ留学を決断。プリマベーラ所属ながら、トップチームの紅白戦でイタリア代表になるDFアレッサンドロ・ネスタとも対戦する。
紅白戦では、ネスタ相手にボールを触らせなかった天才的な逸話が残っている。
三度の膝の靭帯断裂が奪ったもの
全ては1996年のイタリア留学で激変する。左膝の前十字靭帯が完全に断裂し、8ヶ月から1年の長期離脱を余儀なくされたのです。
本来なら、ここで慎重なリハビリが必要でしたが焦りがありました。スペイン1部のログロニェスへの移籍が決まり、復帰を急いだ財前は、チームに合流するも再び左膝の前十字靭帯を断裂。公式戦1試合の出場もなく帰国することになります。
その後、ベルディに戻るも輝きを取り戻すことができず、仙台に移籍してJリーグでのキャリアを続けますが、膝の重症化は避けられず、さらに3度目の前十字靭帯損傷も経験する。
天狗になった17歳が語る後悔
興味深いことに、財前自身が後に明かした証言があります。「十代の頃って代表に入って10番をつけたいとか、自分が一番になりたいとか、いま振り返ると鼻息が荒かったですね」と、U-17代表での活躍で天狗になっていたと振り返っています。
「技術でカバーすればいい」と、体を作ることをおろそかにしていた自分も存在したと正直に語る財前。カテゴリーが上がるにつれ、身体能力的に厳しくなるという現実に直面しても、その自信は揺らがなかったのです。
もし日本代表に選ばれていたら
歴史に「もし」はありませんが、想定できる未来があります。
日本代表に選出されるには、国内でのコンスタントなパフォーマンスが必須。財前が代表入りを果たすには、ヴェルディやラツィオでの初期段階で、怪我を避けて成長を続ける必要がありました。実際、仙台時代の2000年から2005年まで、中盤の司令塔として活躍している。
もし前十字靭帯の大怪我がなければ、ヨーロッパでの経験を積みながら、国内復帰時には完全に円熟した選手として戻ってきた可能性は高い。その場合、2002年の日韓大会での日本代表メンバーに名を連ねていた可能性も十分あります。
中田英寿と同世代の財前が代表入りしていれば、日本の攻撃的MFの選択肢が広がり、大会での戦術の幅も変わっていたでしょう。何より、パスセンスで定評のある財前と、運動量の中田という二つの異なる才能が共存する日本代表は、今よりもクリエイティビティに富んだチームになっていたはずです。
才能と運命の狭間で
財前宣之の人生は、サッカー界における「ガラスの天才」の典型例です。彼ほどの才能があっても、怪我という不運と、若き日の心の隙が組み合わされば、歴史は簡単に書き換わります。
現在、彼は仙台でサッカースクールを経営し、次世代の育成に力を注いでいます。日本代表という舞台で輝くことはできなかった天才ですが、育成現場での教え子たちのなかから、果たして彼以上の才能が生まれるのか。その期待は、財前の新たなキャリアの上に注がれています。


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