中田英寿とマスメディアの深い溝
日本サッカー史上最高の選手の一人と言えば、中田英寿である。セリエAで活躍し、ワールドカップ3大会連続出場を果たした中田英寿の功績はサッカー界で計り知れない。
現役時代、中田英寿といえば「マスコミ嫌い」「メディアとの確執」というイメージも強く印象に残る。華々しいキャリアの裏側で、彼はなぜマスメディアに対して心を閉ざしたのか。
そして、右翼団体からの抗議を受けることになった事件とは何だったのか。中田英寿とマスメディアの関係性の変遷を詳しく紐解いていく。
「おしゃべり」だった中田英寿
意外に思われるかもしれないが、中田英寿は若手時代、決してマスコミを避ける選手ではなかった。むしろ、人懐っこく話好きな一面を持ち、記者たちとも良好な関係を築いていた。目を輝かせながらサッカーについて熱く語る姿は、当時の関係者の記憶に鮮明に残っている。
ベルマーレ平塚時代の中田は、若き天才として注目を集めながらも、メディアとのコミュニケーションを積極的に取っていた。サッカーへの情熱、将来の夢、プレーに対する考え方など、率直に自分の言葉で語っていたのである。
1996年ナビスコカップ事件：最初の亀裂
中田英寿がマスコミに対して不信感を抱くようになった最初のきっかけは、1996年のナビスコカップでの出来事だった。試合後のコメントが一部のスポーツ紙によって「切り取られ」、本来の意図とは異なる形で報道されたのだ。
特に日刊スポーツの報道では「中田が守備を放棄」という見出しで報じられた。しかし、これは中田の発言の一部を切り取り、文脈を無視した報道だった。プロフェッショナルとして真摯にサッカーに向き合っていた中田にとって、この報道は深い失望をもたらした。
自分の言葉が歪められ、意図しないメッセージとして世間に伝わることの恐怖。これが、中田のマスメディアに対する警戒心の始まりだった。
1998年君が代事件
そして1998年、フランスワールドカップ直前に、中田英寿とマスメディアの関係を決定的に悪化させる重大な事件が発生する。それが「君が代事件」である。
朝日新聞が、中田が「『君が代』ダサい」と発言したと報道したのだ。この報道は瞬く間に広がり、国内で大きな波紋を呼んだ。愛国心や国歌に対する意識が問われる中、一部の民族運動家や右翼団体が激しく抗議した。
しかし、実際には中田はそのような発言をしていなかった、あるいは文脈が大きく歪められて報道されたとされている。にもかかわらず、報道は一人歩きし、中田本人だけでなく、家族までもが巻き込まれる事態へと発展していった。
右翼団体からの抗議と身の危険
「君が代ダサい」発言の報道後、中田英寿とその家族に対して、右翼団体や民族運動家から激しい抗議と嫌がらせが始まった。電話での脅迫、自宅への押しかけなど、日常生活が脅かされる状況に陥ったのである。
事態の深刻さを受けて、中田は身の安全を守るため、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードを付けざるを得なくなった。２１歳の若き日本代表選手が、本来集中すべきサッカーではなく、自身と家族の安全確保に神経を使わなければならない状況に追い込まれた。
ワールドカップという人生最大の舞台を控えた時期に、マスメディアの報道によって人生が脅かされる経験をした中田の心境は想像を絶するものだった。
nakata.netの開設
マスメディアへの不信感から、中田英寿は自分の言葉を直接届ける手段を選択した。それが自身のウェブサイト「nakata.net」の開設である。
1998年は日本のインターネットの人口が1000万人程度であった時代に中田英寿はホームページを開設し、セリエAへ移籍する際も、中田はこのウェブサイトを通じて発表を行っている。
マスメディアを介さずに、自分の言葉で、自分の意思を伝える。これは当時としては革新的な試みであり、アスリートとメディアの関係性に新たな可能性を示すものだった。
中田の行動は、後に続く多くのアスリートたちに影響を与えた。SNSが発達した現代においては当たり前となったこの「自己発信」のスタイルを、中田は20年以上も前に実践していたのである。
TBSインタビューで語った「すっごい戦った」
2019年、TBS系「ビビット」での真矢ミキとの対談で、中田英寿は自身のマスコミとの確執について語った。子供時代から、納得しなければ絶対にやらないという性格だったと振り返った中田は、「その最たるものが現役時代のメディアとの付き合い方。すっごい戦いましたからね」と当時を回想している。
この発言からは、単に避けていたのではなく、能動的に「戦った」という意識が伝わってくる。理不尽な報道、プライバシーの侵害、家族への嫌がらせ。こうしたものに対して、中田は妥協せず、自分の信念を貫き通した。
YouTubeでの再登場：選んだプラットフォームの意味
興味深いことに、現役引退後、中田英寿はYouTubeというプラットフォームで再び自身の言葉を発信し始めた。イチローなど、同様に「メディア嫌い」として知られる他のレジェンドアスリートたちも、YouTubeを選んで自己発信を行っている。
彼らがYouTubeを選んだ理由は明白だ。編集権が自分にあり、切り取られることなく、文脈を保ったまま情報を発信できる。視聴者と直接つながることができる。マスメディアという「フィルター」を通さずに、自分の言葉で語ることができるのだ。
現役時代に寡黙だった中田が、YouTubeでは生き生きと自分語りをしている姿は印象的である。それは、信頼できるプラットフォームを得たことで、再び話すことの喜びを取り戻したかのようにも見える。
中田英寿が遺したもの
中田英寿のマスメディアとの闘いは、日本のスポーツジャーナリズムに大きな影響を与えた。彼の反発は、メディア側に自らの報道姿勢を見直すきっかけを提供した。「傲慢だった」と自戒するジャーナリストの声もある。
また、アスリート自身が情報発信の主導権を持つという流れを作り出した功績も大きい。現在では多くのスポーツ選手がSNSやYouTubeを通じて自己発信を行っているが、その先駆けとなったのが中田英寿だった。
真実を求めた孤高の戦い
中田英寿がマスコミ嫌いになった理由は1996年の報道被害、1998年の「君が代事件」での誤報と、それに伴う右翼団体からの抗議という深刻な被害。自分と家族の安全までもが脅かされる経験を経て、彼はマスメディアへの信頼を完全に失ったのである。
「真実を伝えない」マスメディアに対して、中田が求めたのは、自分の言葉がそのまま伝わることの保証だった。それが叶わないのであれば、沈黙を選ぶ。あるいは、自ら発信手段を持つ。この選択は、プロフェッショナルとしての矜持の表れであり、不当な報道に対する明確な抗議でもあった。
孤高の天才と呼ばれた中田英寿。その孤高さは、彼自身が望んだものではなく、マスメディアとの闘いの中で形作られたものだったのかもしれない。
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