歴史史上最大のミステリー
慶応3年(1867年)11月15日の夜、京都河原町の近江屋で坂本龍馬は暗殺されました。維新を目前にした33歳という若さでの突然の死は、日本の歴史史上最大のミステリーとして多くの人々を魅了し続けています。
龍馬暗殺から150年以上が経過した現在でも、真犯人については諸説が入り乱れ、決定的な答えは出ていません。
龍馬暗殺に関する3つの有力説を詳しく検証し、それぞれの根拠と矛盾点をシラベテミタ!
坂本龍馬暗殺の基本情報
事件の概要
暗殺が起きたのは慶応3年11月15日の夜、午後9時頃のことでした。場所は京都河原町の醤油商・近江屋の2階。龍馬は盟友・中岡慎太郎と密談中に、突然押し入った刺客に襲われました。
龍馬は額を深く斬られ、背中にも刀傷を負い、ほぼ即死状態。一方の中岡慎太郎も重傷を負い、2日後に死亡しています。現場には十数太刀の斬撃の跡が残されており、相当な激闘があったことが伺えます。
事件当時の時代背景
この時期、日本は大政奉還直後という激動の真っ只中にありました。徳川慶喜が政権を朝廷に返上したばかりで、新政府をどう構築するかという重要な局面でした。
龍馬は薩長同盟の立役者として、また大政奉還を後藤象二郎を通じて実現させた重要人物として、各勢力から注目される存在でした。その影響力の大きさゆえに、様々な政治的思惑が交錯する中心人物となっていたのです。
犯人説その1:京都見廻組説(最有力)
京都見廻組とは
京都見廻組は、幕府が京都の治安維持のために組織した警察組織です。新選組と似た役割を持ちながら、より武士階級の高い者で構成されていました。隊長は元会津藩士の佐々木只三郎で、彼らは尊王攘夷派の志士を取り締まる任務を負っていました。
この説の根拠
最も有力な証拠は、明治維新後の元見廻組隊士・今井信郎の証言です。今井は明治3年に箱館戦争で捕らえられた際、自ら龍馬暗殺への関与を供述しました。彼の証言によれば、佐々木只三郎の指揮の下、今井信郎、渡辺篤、高橋安次郎ら7名程度が近江屋を襲撃したとされています。
さらに、現場に残された鞘が会津藩のものと一致したこと、襲撃の手口が組織的であったことなども、この説を補強する材料となっています。見廻組は幕府の正式な警察組織であり、龍馬のような倒幕派の中心人物を排除する動機は十分にありました。
疑問点と反論
しかし、この説にも疑問点が存在します。なぜ今井信郎は自首したのか、なぜ他の隊士の証言が少ないのか、という点です。また、当時の見廻組の行動記録と整合性が取れない部分もあるとする研究者もいます。
犯人説その2:薩摩藩黒幕説
なぜ味方のはずの薩摩藩が?
龍馬は薩長同盟を仲介した恩人のはずです。しかし、一部の研究者は「だからこそ薩摩藩が暗殺した」と主張します。この一見矛盾した説には、どのような根拠があるのでしょうか。
この説の論拠
龍馬は公武合体派に近い穏健な考えを持っていました。大政奉還を実現させたことで、武力倒幕を目指していた薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通にとって、龍馬の存在は「邪魔」になった可能性があるのです。
また、龍馬暗殺後、薩摩藩は急速に武力倒幕へと舵を切りました。龍馬が生きていれば、武力衝突を避けようとしたはずだという指摘もあります。さらに、暗殺直後の薩摩藩の動きが不自然に素早かったという記録もあり、事前に知っていたのではないかとする見方もあります。
近年では、薩摩藩が見廻組を利用した、あるいは情報を流して暗殺を誘導したという「二重構造説」も提唱されています。
この説の弱点
決定的な物証や証言がないことが最大の弱点です。また、龍馬と薩摩藩の関係は良好であり、特に西郷隆盛は龍馬を高く評価していたという記録が多数残っています。動機としては成立しても、実行犯としての証拠が乏しいのが現状です。
犯人説その3:土佐藩関与説
複雑な土佐藩内の対立
龍馬の出身地である土佐藩にも、暗殺の黒幕疑惑が向けられています。土佐藩内には、上士と下士の身分対立があり、龍馬は郷士という下士の出身でした。
この説が提起される理由
土佐藩の実権を握っていた後藤象二郎や山内容堂は、大政奉還の功績を独占したいという思惑があったとされます。龍馬が生きていれば、大政奉還は龍馬のアイデアだったという事実が広まり、土佐藩上層部の面目が潰れる可能性がありました。
また、龍馬は土佐藩を脱藩していたため、藩にとっては「裏切り者」という側面もありました。当時の武士社会において、脱藩は重罪です。龍馬の影響力が大きくなりすぎることを、土佐藩上層部が危惧していたという見方もあります。
証拠の乏しさ
ただし、この説も決定的な証拠には欠けています。後藤象二郎は龍馬を重用しており、実際に大政奉還建白書も龍馬のアイデアを基に作成されています。土佐藩が直接手を下す動機としては弱いという指摘が多数派です。
その他の説:新選組関与説の検証
かつては新選組犯行説も有力でしたが、現在では否定的な見方が主流です。新選組は事件当時、組織として弱体化しており、また龍馬暗殺の数日後に新選組幹部が「犯人は見廻組ではないか」と推測していた記録も残っています。
ただし、新選組の残党が個人的に関与した可能性までは否定できないという研究者もいます。
現場検証:近江屋に残された手がかり
事件現場には、いくつかの重要な物証が残されていました。床の間には刀の鞘が残されており、これは会津藩士が使用していた型のものでした。また、龍馬の刀「陸奥守吉行」には、激しく戦った痕跡が残されています。
襲撃者は少なくとも3名以上、おそらく5〜7名程度だったと推測されています。プロの剣士による犯行であり、計画的な暗殺だったことは間違いありません。
歴史研究の最新動向
近年の研究では、複数の勢力が複雑に絡み合っていた可能性が指摘されています。つまり、実行犯は見廻組であっても、背後には別の黒幕がいた可能性です。
幕末の京都は、様々な政治的思惑が渦巻く修羅場でした。龍馬のような影響力のある人物の暗殺には、複数の勢力の利害が一致していた可能性も十分に考えられます。
真相は藪の中
坂本龍馬暗殺事件は、現在でも完全には解明されていません。実行犯としては京都見廻組説が最も有力ですが、黒幕の存在や暗殺の真の動機については、今なお議論が続いています。
歴史のロマンとして語られることも多いこの事件ですが、一人の優れた人物が志半ばで倒れたという悲劇でもあります。龍馬が生きていれば、明治維新後の日本はどのような姿になっていたのか。その答えは永遠に分かりませんが、だからこそ私たちは今も龍馬の生き様に魅了され続けるのかもしれません。
真相究明への道のりは続いていますが、新たな史料の発見や研究の進展により、いつか真実の一端が明らかになる日が来ることを期待したいものです。


コメント